「溺れるナイフ」に溺れる

ああこれは。「あの頃」の話だ。

と思った。勝ち負けがつけられないものなのに負けたくないと思ったり、むやみやたらに叫び散らかしたくなったり。何かに対して虚勢を張り、何かを信じ、何かを怖れ、何かと戦い、何かに縋りたくなり、何かを探し、何かを諦めたような気持ちになり、それでも何かを求める。これは間違いなく中高生のあの頃の感覚だ。と思ったのだけれども。

よくよくその頃の自分を思い返してみればそれはまあ健全なもので、世界はいつも自分に対して優しいと思っていた。「この感覚は身に覚えがある。」と、確かにそう思ったけれど、それは自分自身が体感したことではなくて、多分あの頃触れていたものから得た感覚なのだろうなと思う。よく「青春特有の」という言葉で表現されるこのひりひりした感じ。わたしにとっては、例えば山田詠美や、嶽本野ばらや、壁井ユカコやなんか。

最近こういうひりひりしたの少ないよなあと思ったけれど、気づかないうちに私も少し大人になっていて、出会う機会が少なくなっていただけかもしれない。

 

 

考察(という名の殴り書き)

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  • 「ナイフ」は何を象徴しているのか

原作者の朝倉ジョージ曰く、「ナイフ」は「十代の自意識」であるとのこと。初めは、「ナイフ」が何を意味しているか分からなかった。しかし、その言葉を見て改めて考えてみると、中でもコウがナイフと重ね合わせて描かれていたのではないか、と感じた。

 

海に捨てられたナイフが沈んでいくシーンは、夏芽に「すまんの」と伝えながら沈んでいくコウのシーンにどうしても重なった。

 

 

  • アクセサリーと浮雲の神の守り

二度目の火祭りの日、夏芽はコウにもらったアクセサリーをつけている。しかし、最後のコウの舞のシーンでは、それはコウの右腕にある。夏芽が気を失ったあと、コウが夏芽の腕からそれを持って行ったことは間違いない。

 

初め、夏芽にそれを渡したとき、コウはそれが「お前のことを守ってくれるかもしれん」と言った。しかし、夏芽は遠くに行くべき存在である。そのため、浮雲の神の守りは夏芽に必要ない。必要ないというより、あってはならない。アクセサリーを自分の手元に戻したことで、浮雲の神の守りから夏芽を解き放ったと解釈できる気がする。

 

そして、コウは浮雲で神さんと共に生き続ける。そうすることによって夏芽を禍々しいものから遠ざける。自分が浮雲に存在し続ける限り、悪い出来事は全て浮雲に封印する。舞の中で、アクセサリーをつけた右腕を強く握るコウを見たとき、そんな決意が見えた気がした。(ナイフ=コウと見ることができるなら、コウがそこにいる限り禍は浮雲に残り続けると表現していると見ることができる)

 

 

  • わたしの神さん

夏芽にとってコウが神さんであったのと同様に、コウにとっても夏芽は神さんだったのではないか。白装束を着たコウが聞いた「殺せ」は、後の夏芽の言葉、コウにとっては神さんの言葉だったのではないか。

 

浮雲の神と生きる力を持つコウと、遠くに行ける力を持つ夏芽。特別な2人の間に自分が入ることはできないと大友は言う。夏芽とコウは、互いに全く逆の力を持つがゆえに強く惹かれあったのではないかと思う。

 

 

好きなシーンなど

  • 大友との映画の前夜、夏芽がペディキュアを塗るシーン

このシーンは、特に印象に残ったシーンだった。

 

物語の中で、コウは青、大友は赤で表現されている。一般に青には静、赤には動のイメージがあるが、確かにコウと大友にもそれぞれそのようなイメージが無くはない。

しかしそれ以上に、コウには"激しい"、大友には"穏やかな"イメージがある。そう思うと、コウが海、大友が椿で表現されているのが、とても相応しくて、そして美しく感じられる。

特に、大友の椿。わたしは赤といえば、炎や薔薇を連想する。例えば炎のような赤の人といえば、渋谷すばる。薔薇のような赤の人といえば、堂本光一。そんなイメージ。だけど、大友はそのどちらとも違う気がする。

赤い椿の花言葉は「理想の愛」「謙遜」「控えめな美点」「控えめな愛」そして「気取らない美しさ」。大友が忘れられず調べてみたら、より一層しんどくなった。

 

青で塗り始め、コウを思い出し、一本赤で塗る夏芽。それだけでも心にずっしりくるのに、さらにそれに気づく大友。「椿みたいじゃ」という大友…

 

 

  • コウとの最初のキスシーン

川縁で夏芽がコウに写真集を見せた後のキス。わたしももう良い大人なのに、初めて観たときは息をするのも忘れて見入ってしまった。

 

 

  • 大友とのキスシーン

これは、もう!本当にごちそうさまです!最初から最後まで恋で溢れた…特に離れた後の気まずげな表情から、笑う夏芽を見てホッとしたような笑顔に変わる大友に心を奪われてしまった………

 

前のコウのキスシーンにしても何にしても、ひとつの映画のキスシーンでこんなに何度も興奮することある?監督とは絶対絶対良い酒が飲めるな………

 

 

  • 「大友といると、明るい気持ちになれる」

物語を通してコウと大友は対比されている。「お前に何もしてやれん」と言うコウと、「頑張らせて」と言う大友。わたしは大友のモンペだから「もう!大友くんにしといてよ!頼むよ!」って何度となく思ったけれど、そういうことじゃないんだろうな。夏芽が神社で願った「普通の幸せ」は、大友が与えてくれるものとは違ったのだろうか

 

 

  • 夏芽が大友に別れを告げるシーン

「俺、遠距離でもええよお」「大好きじゃ」というまっすぐな思いも「コウか?」と気づいてしまうところも。切なくて胸が苦しくなった。大友、心から幸せになってほしい。だけどきっと、大友はわたしが願わなくたって幸せになれると思っている

 

 

 

【以下、2019.5.10加筆】

ここまでが、重岡大毅に完落ちする前のわたしが書いた文章なんですけど。当時のわたしよく冷静にストーリー追えてたな………

いま観たら、大友が出てくるたびに発狂する気しかしない。キスシーンなんて、人間の形を保ったまま見る自信がない。けど、重岡くんに対する感情が前とは変化したいま、もう一度改めて観たい。

 

溺れるナイフ」は、重岡大毅さんが気になり始めたわたしが最初に見た彼の出演作でした。この作品の登場人物誰もがそうだけど、大友は大友で。重岡大毅ではなくて。魂の乗っかったかのような演技に、素直に惹き込まれました。テレビ誌で重岡くん自身もターニングポイントと語っていたけれど、改めて大友、素晴らしかったなと思います。

 

多分、他の誰かが大友を演じていたとしても、きっと「ああ、この役重岡くんにやってほしかったな」って思う気がする。

熱くて、優しくて、少し不器用で、

真っ直ぐな男の子。そんな役を演じる重岡大毅さんが、わたしは一等好きです。

 

この映画を観たせいで、「葛藤する重岡大毅」が性癖になってしまいました!!!!とってもとってもありがとうございました!!!!!!!!!!