結局、マニアックは何を伝えたかったのか

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日時 2019/2/12 Tue 18:30

場所 新国立劇場 中劇場

主演 安田章大

 

まず初めにストーリーについて一言で述べておくとすると、まったくもって泣ける話ではなかった。大団円では「どういう感情を抱くのが正解か分からない」という困惑。だったのだけれども。幕が下り、ギターを片手に腰を低く落としながら歌う安田くんが幕前に一人残され、そして金と赤のテープが空を舞い、会場が暗転したとき、私はそれ以上ないぐらい完璧に泣いていた。

安田くんが、思っていたよりもずっと小さくて。いま舞台に立って、エネルギーをぶつけている。その身体のどこにそんな表現や思いやエネルギーが詰まっているんだろうと劇中何度も思わされた(特にメイと2人で歌うシーンではそれを強く感じ、そんなシーンでないのにも関わらず目頭が熱くなった)。そして、そのエネルギーの受け手の一人として、わたしがここに存在している。見に来られて良かった、出会えて良かったという、それ以外の感情がすっかり抜け落ちて。いま観終わったばかりの舞台の感想ですらすこんと抜け落ちてしまって参った。

観終わった直後は何も考えられなかったが、そこから幾分復活して、つたない記憶をなんとか呼び覚ましながら「あれは何だったのか?」「何を伝えたかったのだろう?」と思いを巡らせる日々を過ごしている。なんとなくまだ答え合わせはしたくなくて、自分の感じたマニアックを振り返るにとどめて。悶々としているけれども、余韻をたっぷり楽しむためにはまあ悪くないかなあなんて考えている。

 

「結局、マニアックは何を伝えたかったんだろう」

何日かかけてようやくたどり着いた私の答えは、「これってものを見つけたら気が狂うほど愛し抜け」だ。いやいや結局そこなの?みたいな感じで自分でも拍子抜けだけれども。

最初、「観客に新たな感情・感覚を与える」ことだけがマニアックの狙いだったのか?と思ってしまうぐらい、物語としての主題が見えづらかった。最後のアキラの赤のストラトを手にしての歌は、「一生は一度しかない。たとえ一人になろうとも、自分がまともだと思う道を選んで生きていく」といった感じ。「みんなに流されない。自分を信じることが大切」はたしてこれが主題だったのか?劇中を通じて考えてみても、diversityを語るために作られた作品であるとは言い難かったように思う。

 

ここで、キャッチコピー「これってものを見つけたら気が狂うほど愛し抜け」について考えてみる。これは矢猪院長の歌の一節であるが、彼の言う「これってもの」はあまりに異端に感じられ、まさにマニアックであった。だからこのキャッチコピーは、異端を愛する者の言い分だというイメージを自分の中のどこかで持っていた。それに対して、一度は救おうとしたメイが異端だと分かり退けるというアキラの選択、そして最後の歌は劇中の人の考え方の中では幾分まともに感じられた。このため観劇中は気付けなかったけれども、よくよく考えてみればアキラの最後の歌にも確かにこのキャッチコピーに通じるものがあったと思う。

「一生は一度きりだから、自分の信じた道を行く」と言われてもなんだか普遍的なものに感じられて、「ふぅんそうなんだ」というのが最初の感想だった。でも「これってものを見つけたら気が狂うほど愛し抜け」という文句を、アキラの考え方やラストの状況等々を考慮しつつアキラの言葉で「アキラの歌」という形にまとめるとあのようになるのだ、と考えるとなんだかしっくりくる。2人で生き残ったというある意味とてもドラマチックな状況に流されず、メイを異端だと判断して退ける。この選択こそがアキラにとって気が狂うほど愛し抜くべき「これってもの」だったのだろう。

ここで重要なのは、まともに見えたアキラにとっての「これってもの」も、違う切り口で見たとき、違う状況に置かれたときにもまともに見えるとは限らないということだと思う。実際、メイが「私のような奇病の人が増えれば、それが当たり前になる(=異端ではなくなる)」と言っていたのがよく記憶に残っている。メイの言葉の裏を返せば、現実社会で生きる観客からしてみればマニアックではないと感じられるアキラの思考も、必ずしもまともとは限らないということだ。「100%マニアックでないもの」なんて存在しない。メイの台詞はそれを暗に示していたのではないか。そして、それでもアキラは自分の思う道を選んだ。

 

では、なぜ最後の歌を聞いたときにすぐにその思考に至らなかったのか。なぜ、「何が何だか分からなかった」と感じたのか。アキラは全力で歌っているし、歌詞だって力強い。間違いなくラストシーンで、ある意味で神々しさすらあった(もちろん、金のオブジェに乗ったメイだとか、祭りのような雰囲気だとかは奇妙だったけれども)。なのになんだかすっきりせず、最後の歌を主題として認識できない。むしろ、「え?何?この歌」という違和感。この違和感の正体は、「アキラがストーリーの中でその歌に見合うような強い意志を見せ続けていたわけではない」というところから来ていたのではないか。

「メイを連れて逃げようとする」「院長に背こうとする」そんなアキラの姿が劇中を通して描かれていた。しかし結局彼がラストで選んだ道は、メイからも逃げること。そんなアキラに「自分の道を」と歌われたところで、説得力も、まして感動もない。例えばアキラが最初から最後まで自分の意志を貫く男だったとしたら、または初めは全く意志を持っていない男だったとしたら、きっと最後に受ける印象は変わっていただろう。

ラストシーンをあのように描くことで、観客に違和感を与える。間違いなく主題に沿っているにも関らず。「主題を描き切る」なのに「観客に疑念を抱かせる」。このパラドックスの両立こそが、マニアックの目指すところであり、挑戦だったとしたら?見事にしてやられた!と思わざるを得ない。

 

カーテンコール
カーテンコールは三回。一回目はキャストさんが順番に。トリ前に古田さんが、キャスト陣の間を縫って真ん中から。そして、そのあと同じように安田くんが真ん中から。古田さんが堂々と前を向いて歩いてきたのに対し、安田くんは左右のキャストににこにこと会釈をしながら出てきた。そこにもまた安田くんの人柄が表れてるのかなと感じた。軽く手を振りながら向かって左にはけ、最後に一礼。そして、拍手に応えて二度目。はけるときには古田さんになにやらチャーミングに笑いかけて。さらに三度目、最後の回は投げキッスから、腕をぐるっと回していたのが、よく記憶に残っている。そのあと、古田さんに向かって軽く手を合わせていた。
 


雑記(掻い摘んでちょこちょこ)
・思っていた以上に舞台を跳ね回っていた安田くん。歌声はもちろん、身軽かつダイナミックなダンスに魅せられた

・U.S.A風のダンスも

・とにかく声量がすごくて圧倒された。アキラもさることながら、婦長が圧巻だった。

・アコギを使っての歌が多かった。そんな中一曲あったスタンドマイクでの曲(I will rescue〜)も印象的だった。その際の衣装は赤いジャケット

・通路を活かした演出も

・頭を足にぴったりくっつけるまでお辞儀する記者とアキラ

・メイ(アイドルVer.)の歌唱中に、口を開けて左右に揺れるアキラ

・ビジュアルは黄色いレンズの眼鏡に、揺れないピアスをぱちぱちと。基本はオレンジのTシャツにつなぎの植木屋スタイル。

・転校を繰り返しており、通学路に咲く花が友達だった幼き日のアキラ。しかしまだ花は育てたことがない

・「犬塚アキラ」を観ながら、思った以上に「安田章大」を捉えている自分に驚いた。だけど今になるとアキラと安田くんがうまく繋がらなくて、それにも驚いている

 

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